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KOTOWARIでは、多様な背景や世界観を持つ人びとが互いから学び合い、古今東西の智慧と悠久の自然に触れ、自己探求を深めていく場を共創しています。サマーリトリートは、自然との深い対話と自己探求の場であり、多くの参加者にとって新たな気付きや癒しをもたらす貴重な体験でした。プログラムを通じて、参加者たちは自然との繋がりや自分自身の内面を再発見し、心地よさと共に自分の存在意義を感じることができました。本ブログ記事では、参加者の感想の一部をご紹介しています。

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「今まで自然について語る時、どこか机上の空論のような気がしていました。自然が世界に何らかの形で関わっていることは頭ではわかっていたけれど、僕にとってそれは言葉のお遊びでしかありませんでした。けれども、今回のプログラムで感覚的な側面から僕は他の生き物と繋がっているのだという気付きを得ることができました。それはどこか懐かしい感覚でした。」

「自分の心身の状態や知識、その時の状況によって、同じ場所でも違う場所になる、そういうことをあらためて感じました。私は誰かや、なにかからもらったものを写しているだけなのかな、と思います。世界は広いけど私の世界はここにしかなくて、それを誰かと共有できることのよろこびも、深く感じていたと思います。影響される、入ってこられる、壊されることの豊かさというか、そういうしあわせもこの期間感じました。」

「自分の存在を否定されないという場と、みんなの雰囲気で、こんなに自分はやさしい状態でいられるのかというおどろきもありました。自分がこうであるなら、誰かもこうなのかもしれない、その人を形づくるものはその人ではなくて、その人がそれまで受けてきた世界なんだな、ということを自分の体で感じて腑に落ちたというような感覚があります。リトリートの期間中は、世界、とよばれるものについての不思議さや、かけ離れた感覚、でも私も世界だというようなことが両立したふわふわしているけど落ち着いている状態になっていたように思います。」

「本当の意味で、こころとからだの力を抜くということを体験した。KOTOWARIがすごいなと思うのは、圧がないこと。KOTOWARIに来る前は、進歩しなきゃいけないとか、なにかを得なきゃいけないみたいな圧をどこかで感じていて、常に焦りがあった。その焦りがあったこそ、応募したのかもしれない。そして、その圧がないKOTOWARIにいると、本当の意味でからだとこころの力を抜けた。」

 

「プログラムの中では、川や風、木々、動植物など(自然の)の音や波と、対話の場における他者の言葉や感情を同時期に、交互に感じることによって、他者(非人間を含む)と私自身のつながりを強く感じた。特に、他者から受け取った言葉・言葉にならないものが私自身の気づきや言葉になり、それを場に出すことでまた他者の気づきや言葉になる、というやりとりが、他者とのつながり、その中で受け取っていたものに光を当ててくれたように思う。このプログラム自体が日常から独立したものではないが、一つの収束点として、これまでの文脈があつまり、これからにどう向き合うかを問い直す、姿勢を正すような体験だった。」

「今まで人と比較して自分のことを認識していて、それは「自分を持つ」ことができていないと思っていました。ながされて生きていると思っていました。しかし今回は自分というものは相対的なものだけど、自分の世界観というのを認めてあげることで、それ自身が自分なんだと納得することができました。社会から切り離されて自然と自分に焦点を当てることを意識していたのでいい経験でした。」

「今までの人生の中では、学校においても仕事においても、趣味においても、言語化できないようなことでもなんとか伝えようとする能力が求められてきた。それに対してどこか違和感を抱いていながらも、言語化する能力を磨こうとし、ぎりぎりで社会の一員として認められることができていた。今回のプログラムでは自分が押し殺してきた違和感を救うことができた。はじめのうちは言葉で考えないことを意識していたが、時が経つにつれて言葉を介さずに感じるという行為はとてもすんなりと自分の中に入ってきて、私の自然な状態になってきたことを感じた。」

「各々の思考や感性が開かれた時、それらが融和しあたたかいものとなる。効率的に生き、成果を出さなければ学校や会社の中で立場を築いていけないから、生存戦略として自分の感覚を多少無視していかなければいけない。この4泊5日の期間は効率を考えず、その時その時に感じたことを大事にして、その形や輪郭や温度を、見ようとしたり触れようとしたり聞こうとしたりした。そしてそれらを、思考も心も体もオープンにした状態で、他者と共有することによって、それらが心地よい状態で融和することになる。あたたかい、ここちよい、からだの中がゆったりしている。」

 

 

「自分に生じる感情や感覚に素直になれるようになって、以前に世界と接する時に存在してたフィルターが無くなったと実感しています。余計な論理や客観性、比較などが取り払われ、自分が行うことと感じることが鮮明になり、信頼できるようになりました。また、世界とは何かと問いかけるときに無理に理性や問いかけをして壁に突き当たったり、言葉にして概念化する必要もなく、ただ信頼できることが存在しているだけでいいのだと思いました。他にも、以前から行っていた哲学がある程度知識から智慧に変わったと実感しています。この体験を通して考え方を学ぶことができ、そして自分の世界観の支柱ができました。」

「私個人というものが、ある独立した個体ではなく、さまざまな文脈から受け取ったものによって構成されているということに気がついた。これまでは、個人の中に学習した経験があり、感情があり、意志は個人に委ねられているものだと考えていた。しかし、そのような面がありながら、同時にそのような経験や感情は他者から受け取ったものでもあり、自分自身が必ずしも自分自身だけで構成されているわけではないという認識を得た。その上で、受け取ってきたものに感謝すること、受け取ってきたものを受け止めた上で、自分の頭ではなく腹で考えること、落ち着いて(この言葉が適当なようには思わない)判断すること、言葉を選ぶことの重要性を感じ、すでに実生活に取り入れようとしている。」

「自分の世界と客観的にみたときに存在するこの大きな「世界」の間には明確な境界線はなく、お互いに溶け合って入り混じっているように存在することに気づいた。これを上手く言葉で表現することは今の自分にはまだ出来ていないが、常にこの「世界」の流れを追いかけているように感じていた過去の自分は今ではその必要性を感じることなく生きていけるように少しはなったと思う。自分は「世界」の中に存在すると同時に「世界」は自分の中にも存在する。だからこそ世界に置いていかれることはなく、自分のペースで生きていけばいいし、自分を大切にすることは「世界」を大切にすることであり、「世界」を大切にすることは自分を大切にするということでもあるのではないか。」

「意外にも余韻というのが思ったより強くなかった気がしています。リトリートが終わったよりかは新しい人生が始まったみたいな。このリトリート中に起きたパラダイムシフトが強烈すぎて多分余韻が消されたのかと思います。それほど凄かった。このリトリートに参加できてこれ以上ない経験をすることができました。」