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2022年11月~2023年2月で実施した、Kotowari Winter Fellowhip 2022-2023。隔週のリーディング課題とセミナーを終えたフェローの振り返りをご紹介しています。今回は、SP:”奥会津冬合宿プログラム”の振り返りを、フェローの「みき」よりお届けします。

私の「いのち」の本音

KOTOWARIのWinter Fellowshipが始まる前、私の人生に対する希望はとてつもなく低かった。

内省の重要性を痛感しつつも、内省によって得られる気づきは自分にほんの一瞬の感動と教訓しか与えず、その教訓は自分を縛ることになるだろうと予感していたからだ。内省で得た教訓を強く自覚すればする程、教訓に背いてしまったり教訓を忘れかけている自分に気づいたとき、辛くなってしまう。自分とネガティブに向き合わざるを得ない状況に置かれていたことで、「内省=辛い」という型が出来上がっていたのだろう。一方で、この他にも沢山の型が自分に潜在していて、それを認識したと思っていても、実は気づくこと自体が予防線になっていることもわかってきていた。そんな私は、Winter Fellowshipを通して自分に熱意をもって向き合えば希望が見えてくるのではないかと、僅かな希望を抱いていた。

Winter Fellowshipのまとめとなる冬合宿の1日目。事前課題として出された『Now I become myself』を読んで思ったことをシェアしたとき、「”ようやく私は自分になった”が、果たして自分とは何なのか」「自分から移り変わる時代の支配的価値観や世界観を削ぎ落していって何が残るのか」「そうした全てが自分なのか」、また、「この詩を書いたとき、作者はどのような状態にいたのだろうか?」という内容を中心に話し合った。私が「この詩は未来の自分が書いたようだ」と話したとき、共感してくれる人もいた。また、「私は自分になれた」のではなく「私は自分になる」と表現されているのは、自分になりたいと願い続けてなれたのではなく、ある瞬間何かが変わり気づいたときには自分になっていたという感覚があったからなのだろうなとも思った。

しかし、このように自我について皆と模索すること自体は楽しく興味深いものだったのだが、自我を模索してそれなりの答えを得たとしても、自分の心に蔓延る生への希望の薄さはぬぐい切れないだろうと初めから諦めている自分もいた。自分を模索することと苦しみを解決することの2つの間には関連性があるのだろうけれど、私はその関連性を生かし切ることが出来ないまま、いつも通り悩みながら生きていくのだろうと思っていた。何も心に響かない自分に嫌気がさし、せめて冬合宿の間だけは周りの人が話すことを精一杯聴いてみることを自分に課した。

2日目の午前は、聴覚に集中する瞑想から始まり、次に雪が降る中五感を使うワーク、最後に3分間ただぼーっと思考を観察するワークを行った。最初の2つのワークは比較的落ち着いた状態で臨むことが出来たが、最後のワークは何も考えようとしなくていいと言われているのにも関わらず、何も思考が浮かんでこない自分に焦りを感じた。聴覚、五感、ただ思考をみつめる、と徐々に意識の範囲が広がっていく中で、最初の2つは意識の範囲が制限されておりそれが手綱となっていたが、最後のワークでは意識の範囲が漠然としたものになり、手綱がなくなったため不安を感じたのだろう。

瞑想中に音が聞こえたり、外に出て雪の冷たさや自然の音を感じたりすることは、共有可能であり、確かにそこにあると言い切ることが出来る。しかし、自分の中に浮かぶ思考は、完全に一致した形で共有することは不可能であり、それは幻想だったと言ってしまえば幻想になってしまうような不確かさがある。自分の思いを完璧に他者に伝えることの出来る優れた表現者でもなく、自分の思考は幻想だったと思うことで自分の感情を無かったことにして他者に伝えることを避けがちな私にとって、自分の中に浮かぶ思考の不確かさと向き合うことは避けたいことであり、恐れや不安といった感情となって表れた。

自分の弱さを改めて実感した後、配られた資料を読んだ。「自我による働きは不満を抱くことを基軸としている。」思い当たる節がありすぎた。今までで最も自分のエゴの働きを強く認識したのは、理想と現状がかけ離れているときだった。そのときの私は理想に近づけない自分にばかり囚われて、理想に近づけない原因を世界という漠然とした対象に置き、解決されない不平不満を語っていた。

そのあとの議論では、問題の根本に辿り着こうとする際に、問題の原因を内に置くという掘り方があることは分かったが、その根本の問題は依然分からない。「あなたにとっての根源的欲求は何ですか?」は2日目の終わりに問われた課題だった。

この問いに向き合うことは、今までの思い出や記憶を辿り自分と対面する作業だった。今までの自分は問題に対面したとき、どのようにその問題を捉えどんな言い訳をして逃げてきたのか、どんな嘘を吐いて本音をはぐらかしていたのか、1つ1つ思い出していった。その中でも最も最悪だったと思われる言い訳が、「死にたい」だったと思う。しかし冬合宿での私は、そう思っていた渦中にいたときの自分とは違う。苦難の原因を世界という漠然とした対象ににおいてしまいがちなこと、自分が心の声に素直になれていないこと、そして自分が最も恐れているのは、自分の中にある不確かなものに触れることだ、ということを知っている。

雪に触れて冷たいと感じる、Winter Fellowshipが楽しい、ご飯が美味しい、その全てが生きたいと思う根源的欲求の表れでありヒントであったことを、私は知っている。知っている私が、「死にたい」という言い訳から「生きたい」という本音を引き出し、不確かさを含めて自分を世界を愛そうと心から思えたのは、とても自然な心の動きだったと思う。気づきに妥協や諦めが伴わなかったのは、初めてだった。

私たちは沢山の問題を抱えており、身近に起きる問題や社会に起きる大きな問題で自分の根本的な問題を覆ってしまう。根源よりも上の問題に向き合っている間に何らかの気づきを得て一時的に解決されたとしても、根源を満たせていないがために、また次の問題に陥ってしまう。根源的欲求を無視し続けて得た気づきは、人生に点在する数多ある気づきのほんの一部でしかないため、「こんな気づきはどうせ何にもならない、大したことない」と思ってしまう。そうしている内に感情が薄くなり、自分への世の中への期待がどんどん下がり、満たされない屍が生み出されていってしまう。

半分屍のようになってしまっていた私が、「私は生きたい」と言っているんだ。なら、その心の叫びをただ大きな声で叫べばいいじゃないか。3日目の午前、各々の根源的欲求について対話をし、午後に心に響く資料を読み、『Now I become myself』を振り返りながら焚火を見ていた私の心は解放されていた。サマースクールの最終日、一人で星空を眺めていた時の諦めのような静けさとは違う、安定した静けさがあった。冬合宿が終わった今も、自分の中に芽生えた気づきを大切にしつつ、新しい発見を積み重ねながら、この先の困難や喜びに直面していこうと思っている。そうあれるよう、願いたいと思う。

みき

神奈川の高校2年生。2021年のサマースクールに参加。中学生のとき摂食障害になり、自分の理想と葛藤する日々を送る内に、自分とは何か、何に向かっているのか、何故生きるのか、といった哲学的な問いに目を向けるように。1年前通信制の高校に転校、それからは物理的にも1人の環境で、無になりたいと願いながら内側への探究を続けている…。その甲斐あってか、前回のサマースクール参加時より成長できた実感がありながらも、どうしても1人で考えていると漠然とした理想論に帰結してしまいその先に進まないので、フェローシップを通して対話をしたり瞑想したりすることで、新しい何かを自分の中に見出せるよう取り組みたいと思っている。

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