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FW最終課題Ⅱ:Now I Become Myself

2022年11月からはじまったWinter Fellowship 2022-2023は、2023年2月に無事終了いたしました。毎週日曜朝にはオンラインでの議論、ワーク、瞑想があり、合わせて国内外の哲学者や心理学者、人類学者などの読書・作文課題を行いました。年明けには深い会津での冬合宿も開催されました。以下、参加者の「Nina」によるWinter Fellowshipの最終課題の作品をご紹介します。
最終課題:フェローシップでの学びをもとに「自己の変容の旅路」を描いてください。

 『Now I Become Myself』

 

 一瞬で自分自身が今まで知っていた、理解していた、望んでいた、感じていたと思っていたことが崩れさっていく感覚をどこかで待ち望んでいる人に、変容の岐路を届けたい。サマースクールとフェローシップがいかに私にとって衝撃的な時間だったかを整理するために、あえてKOTOWARIから離れた私の人生を振り返ろう。

 

 私の故郷は無い。幼い頃から引っ越しが多く、小学校は何度も変わった。長く住んだ土地はある、でも人間や自然との関係性が薄かったから、物理的な場所以上の意味を与えられなかった。東京で毎朝、埼京線に揺られて、やらないといけない勉強と何となく興味があることをこなしていく毎日。帰国子女、成績優秀、社会/環境問題に対する意識が高い、積極的。違うようで似ている友達が集まった空間では、みんな、これしか知らない。記憶の彼方に残っていたとしても、呆気なく上塗りされてしまう。友達とカラオケに行ったり踊ったりして過ごす放課後に、圧倒的に満たされない感覚は抱きつつも、自分が何を求めているかは分からなかった。

 

 サマースクールでの経験は、まさに天変地異。特急リバティの窓から見える山肌、繋がらない電波、使えないSUICA、とんでもないところに来たという第一印象。星空を見ることも、一人で山を歩き回って野生動物に遭遇することも、焚き火を囲んで一緒に内省をすることも、裸足で歩くことも人生で一度も無かったけど、あまりにも心地がよくて、東京に帰った時には非現実的な光景に対して地に足つかず、違和感を感じた。ゲスト講師の荒谷先生の「自分という枠が外れた時に環境に順応する」という言葉が初日には全く理解できなかったが、自然の中でただ在るアクティビティを繰り返した後、最終日に想起した時にはスッと心の中で落ち着いたようだった。

 

 東京に戻ると、違う在り方を知ってしまったからこそ、自分の日常に更に強い違和感を抱いた。「<欲望の対象>と<欲望の原因>の取り違えに気づいていない層」から「<欲望の対象>と<欲望の原因>の取り違えを認識しているがそのままの行動をしている層」へと変容したようだった。辻信一先生のお話で価値を実感した「ムダな時間」を忙殺してしまう自分自身や多くの参加者が何かに囚われているという不明瞭な直感。受験への準備の忙しさでキャパオーバーしてしまった自分。上手くいかない家族関係。強い違和感と、今の状態から抜け出さないといけない、という思いが合わさり、偶然が積み重なって、私はフェローシップに応募することになった。

 

 フェローシップのインタビューで、自分が対峙している問題を曝け出した際に「自分の一番見たくないところを見る覚悟をしなければならない」と伝えられた。言葉を熟慮すると、自らの内面がブラックホールのように感じて、急に恐怖を抱き、考えあぐねた挙句、一度、辞退メールを送った。しかし、精神的な不安定になっていく自分やクラスメートを目の当たりにして、今のままだと、下りエスカレーターに乗ってとんでもないところに行ってしまうのではないかという消極的な理由から、勢いで参加を決意した。

 

 結論としては「とんでもないところ」に飛び込んだようだ。しかし、フェローシップ、内省、瞑想の過程は、上りエスカレーターでも、下りエスカレーターでも無かった。フェローシップにおける探求の過程は、エスカレーターからは程遠く、フェローや運営の方々との対話、本の言葉を用いて内省するワーク、合宿を通じて段差が低くなった階段のようなものだった。しかし、やはり自分自身が更に変革を積み重ねた後でないと、結局、自分の位置も、全貌も、向かっている方向も、そもそも軸でさえも、把握できないということなのだと思う。

 

 「暇と退屈の倫理学」は耳が痛かった。なぜなら、過去よりは幾分かましになったものの、私は気晴らしに熱中するプロフェッショナルだったからである。KOTOWARIサマースクールを通して、今まで求めていた娯楽、それを求める自分自身を俯瞰して見るようになり、自分自身を騙せなくなってきた。しかし、それでも尚、狩人であり続ける自身から目を背けるために、再び兎(欲望)を追いかけてしまっている自覚もあった。兎は私にとっては成績や評価であり、パフォーマンスであり、友達との遊びであり、SNSであり、認めたくは無いが、自分の時間の多くを費やしてしまっていた。このループを自覚し、抜け出すことが如何に難しいかを実感して途方に暮れた。あるフェローが「人生は惨めな気晴らしなのか」という問いを提起し、グループで「惨めな気晴らしではない人生とは何か」を考えた。自分の内側を理解して、使命を見つけて全うして生きることという考えに至ったが、使命が内側から見つけたと確信できるのか、そもそも使命なんてものが存在するのかが疑問だった。

 

 その疑問を深めたのが、モラルエコロジーの自覚と、意味がないワークである。モラルエコロジーの自覚はパラダイムシフトの連続だった。長い間、私を縛り付けてきた触手、そして囚われている監獄の片鱗が見えるようになったからだ。例えば、「自己実現と自己達成をする」ことが人生の意味であるというモラルエコロジーは、「成功と達成を重要視」するモラルエコロジーと相まって「惨めな気晴らしの人生」に陥りやすいことに気づき、華麗にその価値観を刷り込まれている自分に対峙した。更に、KOTOWARIにおいても「ああなれば、こうなる」という理性に基づいて推測する思考の枠組みを乱用していたことに気が付き、瞑想と豊かな感性の再興を通じて、脱却を試みるものの、階段の手すりが無くなったかのように、探求がなかなか進まなくなってしまった。監獄からの脱却を難しく感じる中で、モラルエコロジーの自覚が私の人生に影響を及ぼし始めたのは、意味はないワークとの相乗効果がきっかけである。この時期から、友達や家族に「ニナが違う」と、不思議がられるようになった。意味がないワークでは、自分の部屋に迷い込んだ野生動物の視点から世界を見ることが出来る。全部に意味が無くて私たちが与えている、という軸が普段の自分の軸と並行して存在するようになった。複数のモラルエコロジーに自分が留まることを選択している理由、すなわち私を封じ込めている大きな監獄にも意味がなくて、自分や社会が与えているということに気づき、足先を突き出すことが出来るようになった。

 

 ここまでの文章を読んであなたは何を思ったのか。私は、答えを見つけようと必死に葛藤している自分の様子が語りに反映されていると感じた。しかし、チョギャム・トゥルンパの著書を読み「答えを見つけようと考えもがくこと自体が自我の働き」であるという飛んでもない言葉を見つけて、ロッククライミングでしがみついていた岩と共に、谷底へ真っしぐらに落下した気分になった。マジか…と思いつつも、瞑想が上手くいかない理由も見えた気がした。つまり、瞑想せねばならぬという考えが、瞑想状態から自分自身を遠ざけていたのである。「自分の中にある智慧は、葛藤がないときにこそ現れる」という言葉を読んで脳裏に浮かんだ葛藤がない具体的な状態は、瞑想している状態と「全てを知っている」状態である。

 

17年の人生で出会った「全てを知っている」人物は、五箇山で生まれ育った報恩講料理人の北原二三子さんである。彼女は自然との関係や思い描く他者との関係、ときに神や仏との関係に「いのち」を支えられ、「いのち」が存在する場所を与えられた人物である。彼女は、全てを知っており、葛藤から自分を解放し、智慧に行き着いているようで、彼女と4日間過ごす中で「いのちの場所」のリーディングが彼女と重なっていく感覚があった。でも、現実的に、私には「いのちの場所」どころか、故郷だと断言できる場所もなく、全てを知らない若造なのである。「私になる」こと、「智慧」に近づくことは出来ないのか、と再び葛藤し、悩んでいたところで、冬合宿が始まった。

 

 冬合宿で私が最も苦悩したのは、根源的欲求を探求するワークである。些末な欲求ばかりをクリアし続ける状態に陥ってしまっていたため、自分が一番避けたい、見たくないものに向き合わず、それによって自意識が狭められて根源的欲求に行き着けなかったようだ。私が自覚した上で、抜け出せていないパターンは「不安定な自分自身、否定的な感情から目を逸らし続け、他人の目も逸らすというパターン」である。具体的には「『自制力』をもって、不安定な自分から目を背け、課題やテストに没頭して強行突破し、そのまま記憶から抹消する」というものだ。アイデンティティを形成した教育や競泳というスポーツでこのパターンを「メンタルが強い」と褒められ続けて、強化されてしまった。しかし、影響されない強さは、不安定な自分自身に向き合えない弱さと表裏一体だった。このパターンに付随して「やるべきことを手当たり次第に増やしてしまうパターン」「短期的な締切に追われ続けるパターン」「今よりも良いと思ったものに飛びついてしまうパターン」などが存在し、それは更に無数に分岐していく。例えば、他者から見て最も顕著なのはコロコロ変化する髪色だ。2022年には、赤、ピンク、オレンジ、ベージュ、ブロンド、青、青、紫と変化していった。最初のうちはファッションで染めていたが、徐々に、憂鬱な気分になった際に気分を上げるために、髪色を変えるようになった。コロコロ変わる髪色は、精神的な不安定さの裏返しで、それから目を背ける手っ取り早い手段になってしまっていたのである。それくらい、私のこのパターンは、日常の隅々まで浸透して影響を及ぼしていたようだった。

 

 このパターンから抜け出した時に、何も手につかなくなる可能性を考えると、変わることが怖かった。この探求が私の人生において必要なものであるという自覚と、高校3年生になる今、抜け出していいのかという葛藤に飲み込まれた。今のままでいたいという自分と、何かやってみようと囁く自分と、大学受験とIBの最終試験をひかえているのに大丈夫なのかという自分と、それを言い訳にして逃げ続けているだけと指摘する自分が頭の中にいる。

 

 しかし、このパターンや、自らが感じていた葛藤の根本には、自らの不安定さに対する否定的な捉え方があったことに、最終週で気づいた。そもそも「不安定さに向き合う」ことは、葛藤を生み、やがて解放してくれるものなのか、時間が必要なことなのか。私は「中間の状態」というリーディングにおける、これらの問いに対する示唆が印象に残っている。不確実性・曖味さ・不安の中で一生を過ごすことによって「未知の世界に恐れず立ち向かうことができ、自分の生と自分の死の両方に直面する準備ができ」「こころがより多くのことを感じられるようになり」「勇気とともに、思いやりと慈愛」をもてるようになるという内容だ。「不安定さ / 否定的な感情 =良くない / 自制心が働いていない」というシンプルで、でも私の自意識の幅を大幅に狭めてしまっていたモラルエコロジーを自覚した。また「時間と変容」というリーディングにおいて「自由になるための私の努力は解放をもたらさず、真実を理解する静寂な心がもたらす」という言葉があった。不安定さや葛藤から解放されようとする在り方ではなく、静かに眺めるような在り方を実現することで、パターンから自然と抜け出し、それに付随して解放があるのかもしれないと気付かされた。私は時間に頼るのではなくて、一人あること、そしてフェローシップを以って今の自分自身を静かに眺めて、自分になれたらと思う。

 

 場にコミットし、全身全霊を傾けて相手と関わり、注意深く、慎重に、善意を持ってその関係に入ることを実現できたのがKOTOWARIフェローシップだった。そして自分自身でも目を向けたくないことを知られること、挑戦と変化に対して無防備になることは、過去の自分はきっとできなかっただろうし、今の自分でも難しいことではある。しかし、KOTOWARIは、知っているものの中に入り込み、それが私たちの中に入り込むのを許すことが、自然にできるような空間だったと振り返っている。

 

By Nina

Nina

東京に住んでいる高校2年生で、2022年のサマースクール参加者。文学作品を読んで分析したり、文章を書いて表現することが好き。写真や動画を撮って編集したり、絵を書いたり、踊ったり、泳いだり、山を登ったり、旅したり、海に行ったりして過ごす時間を時々取るようにしている。自分に向き合うことで現状を変えたいと思い、KOTOWARI Winter Fellowshipへの参加を決意。

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