2022年11月より開講した、Kotowari Winter Fellowhip 2022-2023。隔週のリーディング課題とセミナーを終えたフェローの振り返りをご紹介しています。今回は、W3:”Being & Mind”の振り返りを、フェローの「ともき」よりお届けします。
真理は教育できるのか
今回のKOTOWARI Fellowshipでは、アメリカのパーカー・パルマーという学者の方の現代教育批判の文章を読んで、「真理とは何か?」「今まで受けてきた教育では、世界の見方、自分の見方、世界と自分との関係について、どんな教え方をされてきたか?」という問いを話し合いました。
パルマーは、人々の倫理観の前提となる「認識論」について語っています。認識論とは、知る者と知られる者とは何か?そして、その関係性はどんなものか?といった問いを扱う哲学の一分野です。そして、私たちが無意識に信頼しているという4つのキーワードを挙げて、検討し、それらが現代社会(特にアメリカ社会)で重視されすぎていることを批判しています。
そのキーワードとは、「事実」「理論」「客観的」「現実」です。パルマーは、これらの概念を、言葉の生まれた歴史的経緯を参照して、混沌の中で生きやすい世界を構築するための「事実」、その事実を秩序立てて統合するための「理論」、私たちを世界と敵対する関係に置く「客観的」、物事に権利を主張し、所有し、支配するための「現実」と定義し直しています。そして、これらが重んじられすぎること、つまり、知る者と知られる者が疎外・分離されてしまうことを批判しています。前近代の、知る者・知られる者の過剰な同一化からは脱することができたものの、近代社会には弊害があるというのです。
では、どんな教育が求められるのでしょうか?パルマーは、4つのキーワードの代わりに「真理」という言葉を使い、それに向かう教育をするべきだと提案します。「真理」は、世界に自分の主観を吹き込むことでも、世界を支配して自分の要求に従わせることでもなく、自分とは全く別だが密接に結びついている何かにコミットすること、全身全霊で相手と関わること、信頼すること、忠誠を誓うこと、共同体の参加者になることだ、と言うのです。教師は、ただ「事実」や「客観的」な知識、「理論」を教えるといった目的論的アプローチではなく、世界や自分のあり方といった認識論的な知恵、つまり、「真理」への到達の道を生徒にじわりと伝えていくのがよいのだと。
その通りです。非常に納得しました。しかし、話し合いの中で出てきた意見によると、現実ではそうはなっていないことが多いようです。私たちが経験したテストは客観的な事実を問うものが多く、その点数を元に受験では合否が判断されます。「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」も、「水兵リーベ(H,He,Li,Be)」も、「世界は〇〇である」といった固定化された知識です。実際には流動的なものであっても、テストで問いやすいように固定化して扱われます。その知識と自分との関係は問題にされませんし、ましてや自分自身とはどんな存在なのかという問いは、毛嫌いされているといってもいいほど、教育の現場で扱われません。
なぜ、扱われないのか。固定化された知識を扱うのは、自然を征服し人間のために利用できるようになるという、その有用性があるからでしょうか。世界を固定化して支配可能なものにすることで、自然だけでなく、他人をも支配・搾取することもできます。また、世界を固定化する知識なら、ずっと変わらないので、誰が教えても、情報としては同じ情報を伝えられ、人材の再生産が可能です。誰がどうみても変わらない「同じ」知識を使えば、それが共通言語となり、世界がスムーズに澱みなく進みます。これは確かに教えることが簡単でしょう。
しかし、自分とは何かという見方は日々流動します。世界と自分の関係も人によって千差万別なのです。そんなに流動性の高くて、人によって異なる「真理」を、みんなに「平等に」教えるとされている教育で、誰も教えたがりません。不可能なことに思えるからです。教科書以上のことを教えたいと思っている熱心な教師もいますが、「真理」を教えようとして、結局、自分の固定化された信念を人に押し付けているだけなことも多いです。おそらく、真理への道を示す作業はとても難しく、繊細で、教師自身の鍛錬が必要なのです。実際、私が触れたことのある神秘主義の文献などでは、教師は自らを教師であることすら公言するべきではないということが書いてあるくらいで、メソッドもカリキュラムも明確に公開されたものはありません。そこには、生徒にこうやって教えればいいといった一律の規定もありません。「論理」や整いすぎた言葉が入ってしまうと、つまり、過度に固定化してしまうと、真理に届く道は示せないのです。
メソッドの固定化ができないということは、大規模な制度化も難しいということです。教育の成果は教師個人個人の力量によってしまうし、そもそも、成果が数量的には図れないのです。しかも、真理に到達できる人などほとんどいないのではないですか?自分の見方を教えようと思っても、一人一人の自己イメージは絶え間なく流動し、なかなか落ち着きません。不変なものを見つけられた人がいるとしたら、それが仏陀であり、そうなるためには悟りを得ないといけません。歳をとって社会に揉まれて自己に対して盲目になっていく前、若いうちに目を見開いて自己を見つめることは大事かもしれませんが、それでも移ろいゆく自己を見させるだけになるかもしれません。真理に向かう教育は、結局のところ無駄になってしまうのでしょうか。
私はそうは思いません。メソッドがなくても、やるべきです。なぜかというと、世界や自己の見方の固定化に対抗するという意味で、です。固定した見方は、他人の支配や、戦争、暴力と結びつきやすいのです。もし、誰かにとって世界がそれでしかない場合、自分と違う見方の人の存在を認めず、無視したり屈服させたがったります。固定化は、究極的には殺し合いの戦争に繋がります。
一方、見方の流動性は、平和に繋がります。例えば、自分が何者かにだけ関心がある人は、他人を支配しようとはしません。自分を流動的に捉えており、その探求をしていれば、それに集中しているうえ、他人のことも流動的に捉えられるはずだからです。自分が何者か、それは自分にしか見出すことができません。人から自己イメージを強制されて、それを固定させられてしまうこと、それが支配です。気が付かぬ間に支配されないように、それぞれが自己の見方を探求する必要があります。
確かに、世界の見方に関しては、自分以外の人の見方を大いに参考にしている節があると思います。私たちは日々、言葉を通じて影響を与え合っており、世界の見方は、ゼロから作り上げることや自分で見出すことが難しいので、特に他人からの伝染力が大きいです。でも、だからといって他人の見方を受け入れるだけでいいかというと、違います。影響されやすいからこそ、自己の見方同様、固定化しないように注意する必要があるのです。そして、自分の見方を変えると世界の見方も変わるので、自己の見方を探求することも依然大事であり続けるのです。
時たま、特定の世界の見方を共有する強い勢力が結託して隆興します。その勢力同士の対立が戦争の大規模化につながります。世界の見方の違いが大きな戦争をも引き起こすのです。その動きに反発することができるという点で、自己の見方を探求することは、真理には到達し得なくても、平和の営みであるのではないでしょうか。世界の見方に関しても、自己の見方に関しても、動き続けてしまうものを無理やりに固定化するという過ちが多くみられます。盲目になってしまったり、幻想を見てしまったりするのです。しかし両者とも、動き続けるものをそのままに見続けた方が真理には近いはずです。
だから、教育ではもっと流動的な自分と世界の見方を教えるべきだと思います。特に、全ての軸となる自分の見方を、です。例えば、「自分の愛することを職業にしましょう」という教えがあったとして、それが固定化してしまうと、本当は愛していないのに自分の職業だから愛していると思い込んでしまうのです。だから、この場合、本当に教えるべきは、「自分が愛することとは何か」という問いへの向き合い方なのです。その教え方のメソッドが今なくても、また、作ることが不可能でも、その教育に関する智慧は、実はそこかしこに散らばっているのだと思います。その教育の結果、自分の見方をある程度確立できた人が、社会を動かす真の個人になりうるのだと思います。
世界の見方に関して、「普通の人」とは違う見方をする人がいます。自己の見方は完全に人それぞれだとすると、それに比べて、先述のように、世界の見方は他人の意見と似てしまいがちです。しかし、世の中の絶対的に正しいと思われていること、例えば、「1+1=2」が理解できない人も世の中にいるよね、という話が話し合いの中で出ました。その人は、他のほとんど全員が持つ画一的な世界観と自分が違うことに、とても疎外感や抑圧感を感じているはずです。また、支配的な価値観に自分が合わせられないこと、そして、誰しもがそちらを正しいと言うことによって、周りの人より劣っていると感じてしまい、劣等感を感じてしまうこともあるはずです。果たして、その人は本当に劣等生なのでしょうか?実は、従来の基準では測れないだけで、天才なのではないでしょうか?
その判断はそれこそ、世界の見方の違いにすぎません。私は、天才か劣等生かの判断はしたくないと思う考えを持っています。1+1=2が成り立つ世界と、1+1=2が成り立たない世界の両方が理解できる人が稀有だと思うし、そんな仲介役になりたいと願っています。しかし、どちらも理解できてしまう人は、強烈な違和感やこだわりがないという点では、もしかしたらパワーがないだけなのかもしれません。1+1=2がどうしても理解できない人は、その違和感をいつまで経っても拭いきれないので、なんとかして、周りの人の世界を1+1=2が成り立たない世界に引きずりこむかもしれません。それができたら、とてつもないパワーです。ひょっとすると、新たな支配とその欲求ですらあるのかもしれません。いや、人類にとって喜ぶべきイノベーションなのでしょうか? それはやっぱり分かりません。でも、私は、それが新たな支配となる可能性がある以上、どちらも理解できるようになるのが一番いいと、現時点で漠然と考えています。単に平和主義なだけかもしれません。どうしても理解できない世の中の常識があると考えている人は、おそらく私とは違う考え方になるのだと思います。
最後に、改めて真理とは何かについて考えます。はじめてパルマーの文章を読んだ時に、真理とはコミットすることだという点に違和感を覚えました。真理とは他人との関係で決まるような相対的なものではないと思ったからです。共同体という言葉も、真理とそぐわないような気がしました。しかし、今は、一理あるなという気がしています。真理の表現について考えてみたからです。真理が表現される時は、言葉か、あるいは行動によって表現されると思います。そして、言葉も行為も、世界の、他者の、他人の存在を前提としています。そう考えた時に、真理は、世界と自分の見方であり、関わり方だということがしっくりきました。私の見方では、この発想は孔子に近いものを感じます。一方、「天上天下唯我独尊」のような言葉とはどう結びつくのだろうか、と気になりました。何にもコミットしないことと、無になること、自我を無にすることは同じでしょうか。他人から独立している時に、他人と関係をしていないわけではないのでしょうか。自分の世界に籠ることは真理から遠ざかるのでしょうか。「コミットすること」という定義をも跳ね除けてしまうくらいに「真理」が潔白だということも、可能性としてあると感じました。
パルマーの議論の中で、「真理」という言葉を使って人々は他人と契約を結ぶことができてきたという記述があります。これは興味深いなと感じています。法律や権利、お金や利害関係は、現代社会では固定的なものと捉えられがちです。あえて表面的に人間関係を捉えることで、論理的に扱い、みんなが合意可能なようにしていますが、前述のように、固定的なものは対立や支配、戦争や暴力へつながります。みんなの自己の見方・世界の見方が変動的であったとしたら、本当は、契約や人間関係も流動的なはずです。しかし、言葉の力か、お金の力か、はたまた死への恐怖心か、流動的なはずのものが固定化してしまいがちなのです。
そんな流動性があったままで、固定化することなく、相手を信頼する力を与えてくれるのが、共通理解としての「真理」だ、というのは、とても納得がいく説明です。なぜなら、その役割を果たしているのは「愛」ともちょっと違う何かで、ある種の正しさへの信頼・人間存在への信仰のようなものがその役割を担っているように思われるからです。真理のこのような共同的な性質を強調するのは、自分は考えたことがなかったけれど、現代社会においてとても重要な観点を提供してくれていると思いました。
しかし、まだ違和感が私の中に残っています。この説明だと、まるで、「真理」という言葉が、人々が調和して暮らすのに必要だから生まれたということになってしまうからです。それだと、実際に真理があるかどうかは問題ではなくなります。直感的に、そういうことではない気がします。「真理」は言葉として、道具として生み出された概念ではなく、「真理」が実際にあるから、「真理」という言葉が使われるようになったのではないかと思うのです。実際にあるということを確信して使わなければ、効力を失ってしまうという面白い性質を持った言葉ではないかと思うのです。「真理」はあるんだという信念は私から消えることはない気がします。その希望のようなものが私の存在をかなり根底から支えています。これからもその信念を持ってこの言葉を使い続けていきたいです。人に押し付けるものではなく、人から押し付けられるものでもなく、あくまで自分自身が見出すものとして。そして、自ら見出すことができた時、真理という言葉はもはや必要ではないはずです。
ともき
東京在住の大学四年生で、法学部に所属。一時期官僚になろうとしていたが、今は色々と見たり行動しながら進路を模索中。来年は金融の会社に勤める可能性が高い。やりたいことは、現状の社会システムをもっと人間や自然に合ったものに改良したい+精神的に高められたい、という2本の柱がある気がしている。なんでも興味はあるが、浅く広くになりがちだったので、深く探求する姿勢や、そのための内省の時間を確保する習慣を身につけたい。いろんな理念が頭の中を渦巻いているが、生きていく、活動していく上で、それを形にしていくこと、体現していくことを心がけたい。「言行一致」が現時点でのフェローとしての目標。