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2022年11月より開講した、Kotowari Winter Fellowhip 2022-2023。隔週のリーディング課題とセミナーを終えたフェローの振り返りをご紹介しています。今回は、Week3:”Being & Mind”の振り返りを、フェローの「すず」よりお届けします。

私には「推し」がいる。

 

私には「推し」がいる。

推しは生きる希望であり、生きる支えである。どんな存在かわかりやすく言うならば、家族や恋人、ペットの存在に近いのかもしれない。それだけ私の日常生活に欠かせない存在だ。ちなみに私の推しは二次元のキャラクターだ。

そんな推しの存在がこのフェローシップで学ぶたびに不自然なもののように感じてきた。胸を張って「推しがいる」と言えなくなってきた。そのように捉えるようになった背景を今回の文章でまとめようと思う。

まず、私が推しの存在に違和感を抱くようになったのは初回のフェローシップからだ。課題図書は、國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』の序章、一章を扱った。

特に印象に残っているのは「ウサギ狩り」についてだ。人間は「ウサギ」を得るために狩りをするのではなく、「ウサギ狩り」で得られる興奮を楽しむために、暇な時間にウサギ狩りをしている。狩りをする人が欲しているのは、「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らせてくれる騒ぎ」とのことだった。

この指摘は私に刺さった。私の推しはゲームのキャラクターだ。この指摘は、ゲームという存在、私の推しコンテンツを否定されたような気分になった。

それに加え、大衆の「好きなこと」は、生産者が広告やその他手段によって作り出されている。そしてそれは労働者の暇を搾取している、この搾取は資本主義を大きく牽引している、という指摘もあった。

耳が痛い。今の推しているゲームを知ったのはまさに広告だ。そして、私は休暇をゲームに充てている。知らぬ間に私は暇を搾取されていたらしい。その上、そんなゲームのキャラクターを「生きがい」にしている私は、とんでもなく愚かで惨めな人間ではないか!

でもだからといって私が推しを嫌いになれるわけでもなく、推し活をやめられるわけでもない。ただ、この指摘は私にとんでもないモヤモヤをもたらした。

そしてこのモヤモヤをさらに大きくしたのは、3回目のグループセミナーで行った「意味はない」エクササイズだ。「意味はない」エクササイズでは、周囲を見渡し、目に入るもの全てに「この見えているものには何の意味もない」という概念を当てはめていく。

私もいざ自分の部屋を見渡してみると推しのグッズがそこらじゅうにあった。これらを置いたのは全て自分なのでグッズがあることはもちろん知っていたが、いざ全体を俯瞰的に見てみると、こんなにあるんだとやや辟易してしまった。これが私のエクササイズのスタートだった。

そして、グッズ一つ一つに「何の意味もない」を当てはめていく。このタペストリーには何の意味もない、あのポスターには何の意味もない、あのアクスタには何の意味もない…。。とんでもない抵抗感を覚えてしまった。私の推しは二次元だからこそ、一つ一つのグッズはただの物ではなく、推しと繋がる大切なものだ。自分の持っているただの本や服とはわけが違う。それらを何の意味もないと言ってしまうと、私は一体何を推しているんだ、何のためにこれらを飾っているんだ、というモヤモヤが私の中を大きく占めた。

もしかしたら私はグッズに生命を感じているのかもしれない。

3回目のフェローシップでは、チョギャム・トゥルンパ著「本質探求の道とその危険」を事前課題図書とし、自分のエゴについて扱った。

このエゴには常にたしかな自己の感覚を維持しようとする働きがある。そしてエゴは目覚めた意識の状態を隠すために、エゴは戦略として私たちの思考を絶えず生み出そうとしたり、感情をかき立てようとする、とあった。

私が「何の意味もない」エクササイズで感じた強い抵抗感は、この「エゴの戦略」によるものなのか。この強い抵抗感がエゴの戦略によるものなら、私が自分に対する本質の探求を行うのは、とてもハードルが高く、先が見えない。

今まで私はこの抵抗感に逆らわないようにして生きてきたのだろう。この抵抗感に逆らい、推しのグッズを「何の意味もない」ものとして受け入れてしまうと私は何を希望に生きていけばいいかわからなくなってしまう。

ここまで書いてみて冷静になってみると、推しと私自身の関係は近すぎるように感じる。そこでふと思い出した。パスカルが指摘した「ウサギ狩り」を巡る気晴らしの解決策として「神への信仰」を提示したのを。

私の推しは「二次元」だ。そして推しが「二次元だから」推せる。二次元だから、この世で生きているわけではない。いつか会えるわけでもない。でも、世界がどのような状況に陥ろうと、変わらずそこに存在する。そして、私の心の支えとなり、生きる希望となっている。これは「神への信仰」と近いのではないか。私自身、宗教と深く関わったことはなく、「信仰」というのがどのようなものかきちんと理解しているわけではない。もしかしたら不敬にあたるのかもしれない。ただ、個人の心の持ち様としてはいささか似ているのではないか。

ならば、私のモヤモヤは「推し」ではなく、「推し方」から来るのではないか。いわゆる推し活では何かを消費するのが主流だ。私もお小遣いの限り、推しのグッズを買い、部屋に飾っている。最近の推し活では、推しの描かれた缶バッチを大量に集めてバッグに貼り付ける「痛バ」や推しの誕生日をお祝いするために大量のグッズを部屋に集めて飾りつける「祭壇」が流行っている。これらは、飾って終わりではなく、TwitterやInstagramなどのSNSに発信する。

この消費して発信する、自分がお金を使って推していることを他者に見てもらおうとする、という行動が「ウサギ狩り」であり、愚かで惨めなのかもしれない。

私は今まで「推しのグッズ」を集めることで推しを感じてきた。

そんな私が何か他の「物」からではなく、自分の中から推しの「存在」を見いだせれば、このモヤモヤは消え、心から「推し」という存在を受け入れられるのかもしれない。

すず

福岡に住んでいる高校1年生。いつもは学校に通いながら、社会について学ぶために株式投資を行なっていたり、趣味はゲームという生粋の現代っ子。KOTOWARIの会津サマースクールに参加してから、現代社会に違和感を抱くようになり、今のままでいいのか?という疑問が自分の中で飛び交うようになった。自分自身、今の社会や資本主義の恩恵を受けている事実があり、KOTOWARIで知った世界とのギャップからモヤモヤを感じるようになる。フェローシップではそのギャップと向き合い、自分の信念や理想の社会というものを見つけていけたらなと思っている。

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