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2022年11月より開講した、Kotowari Winter Fellowhip 2022-2023。隔週のリーディング課題とセミナーを終えたフェローの振り返りをご紹介しています。今回は、Week:”Being&Knowing”の振り返りを、フェローの「みき」よりお届けします。

「さびしさを見つめること」

 

私は世界に疲れてしまった。世界が世俗的すぎるのか、私が精神的すぎるのだろうか。「世界は意外と美しいものなのではないか」と信じて生きてみようと決意したものの、予想通り当たり前に厳しい現実を前に、決意が揺らいでしまうときがある。「自分の価値観と他者の価値観は違う」とか「そんな理想は実現出来るわけがない」といった、当たり前のように分かっていたこと、理解しているつもりで目を背けていたことを再度突き付けてくる世の中に、ひよってしまっている訳だ。そしてそんな世の中の現実から逃げるように、私はひとり考え事をしている。ひとりあるときは、自分の心を守りながら、鳥のさえずりだけ聴きながら、理想の生き方を創造できるからだ。

だが、このままでよいのかとも最近思う。社会と自分を分断して自分の理想だけを模索するぬるま湯的思考は、真に哲学的思考だと呼べるのだろうか。何かが間違っている気がする。こんな欠落感や自分への懐疑心を抱えながら、私のKOTOWARI Fellowship は始まった。

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1週目の事前課題として『暇と退屈の倫理学』國分功一郎著、『考えてごらん』クリムシュナルティ著、そして参考資料の『瞑想とは何か』を読んだ。まずは『暇と退屈の倫理学』の分析を記す。

『暇と退屈の倫理学』で議論される「退屈とどう向き合うか」という問いは、フランスの思想家パスカルから始まる。パスカルによると、退屈することは人間のすべての不幸の源泉であるという。部屋でじっとしていればいいものの、愚かな人間は部屋でじっとしている(=退屈している)自分のみじめさに耐えられず、熱中できる気晴らしを欲するのだと。

私はこの箇所を読み、「退屈との関わり方」いう観点で、人々を3つに分類するという非常に傲慢な分析を試みた。パスカルに愚か者だと非難されることを覚悟しつつ…

ただ、私の認識としてこの3つに優劣などないことを踏まえた上で参照されたい。

① 主体的に退屈になろうとしている仙人(気晴らしを欲さずとも幸福になれる人々)

② 自分の行動は退屈を紛らわすための気晴らしだと気づきつつも、そのまま行動をしている人々(自分の行動が本当にやりたかったことでないと気づいてしまうため、欠落感に陥りやすい)

③ 自身の行動が退屈からの気晴らしだと気づいていない人々(言い換えれば、退屈に気づく 前に、熱中できる気晴らしを見つけられた人々)

この認識をシェアしたとき、ファシリテーターの方に「あなたは自分がどこにいると思うのか」という問いが投げかけられた。私は直感的に、自分は①を目指す②だと答えた。私が抱える自分の生き方に対する懐疑心や欠落感がまさに、②のような気晴らしを求める人が悩まされている感情なのではないだろうか。

ただこのとき、私は何をしてそのような欠落感から眼を逸らしているのかという具体的な行動が思いつかなかった。私にとっての気晴らしとは何なのだろう?

この疑問を模索して二週間たった今、私は恐ろしい可能性に気付いてしまった。

私にとっての気晴らしとは、考えることなのではないかという可能性だ。

多くの②に属する人々が、部屋でじっとしている自分のみじめさから眼を逸らすために気晴らしを求めるのと同じく、私は「現実に疲れている自分のみじめさ」から逃げるために「一人で考えること」で、気を晴らしていたのではないか。もしそうだとしたら大惨事である。一人で考えることは自分を深める上で非常に重要な行動であり、考えた結果生み出した答えは少しは自身に意味を与えてくれると思っていたのに、それはただの現実逃避だと言われてしまった気分だ。それなら私は次に何をすればよいのだろう。考えるのをやめなければいけないのか?益々分からない。どうにかしてくれないか。

混乱してきたところで、私はもう一度『考えてごらん』クリシュナムルティ著を読む。課題の箇所のひとつに「ひとりあることの必要性」という章があった。クリシュナムルティのいう「ひとりあること」とは、楽しみや安楽や満足を求めていないために心理的に何にも頼っていない状態のことである。そして、そのような完全にひとりである人こそが真の人間であると主張する。

しかし主張するだけではない。クリシュナムルティは、さびしさを見つめて理解しそれを乗り越えたときに、不滅な豊かさを手に入れることが出来ると解決策を提示してくれる。

____さびしさを見つめること

気晴らしがさびしさであるならば、私にとってさびしさを見つめることとは、浮かび上がる思考を見つめることなのではないだろうか。そしてこれはデイリーワークである瞑想にも通じる。瞑想を実践したとき、自分の中に静けさが訪れる瞬間がいくつかあった。その瞬間が訪れていたときは必ず、次々と浮かぶ欠落感や疑問をただ認識し受け入れていたような気がする。無になろうとするのではなく、在るものを見つめることで静けさを得る、という感覚だろうか。とても不確かな感覚だ。だが、ただ思考を見つめ受け入れたときの不確かな感覚によって、思考のループを手放すことができたのは確かだ。

私が探していた答えは、どの本でも哲学者でもなく、自分の中にあったのだ。

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まとめると、『暇と退屈の倫理学』を読んだ私は、自分が考えることを気晴らしにしていたことに気づき、考えることから逃れることを考える、というループに陥っていた。しかし、「たださびしさを見つめること」つまり、思考を見つめることで、その思考も自分自身であることを自然に理解できるようになった気がする。

そのような気づきの先に、幸福があるのかは分からない。分からないながらも、現実逃避の手段として一人考えているだけの自分が「ひとりある」自分になれるよう、日々気づきを得ていきたい、と強く思った。

そして、これからも現実から逃れるために、気晴らしとして思考して懐疑的になることもあるだろう。だが、今の私にはクリムシュナルティの教えから学んだ、「思考を見つめて理解し受け入れる」という処方箋がある。加えて、私が今まで繰り返していた思考のループが無駄な訳でもない。むしろ私がぬるま湯的思考だと疑った思考から、自分なりの答えを見出すことができたのも確かだ。

おそらく、どんな形の思考であれ、考えることは重要なのかもしれない。

ただどうせ考えるのなら、現実逃避としてではなく、「ひとりある」自分になるための気づきとなるような思考をしたいものである。そんなことを考えながら、私のFellowshipは続いていくのである。

みき

神奈川の高校2年生。2021年のサマースクールに参加。中学生のとき摂食障害になり、自分の理想と葛藤する日々を送る内に、自分とは何か、何に向かっているのか、何故生きるのか、といった哲学的な問いに目を向けるように。1年前通信制の高校に転校、それからは物理的にも1人の環境で、無になりたいと願いながら内側への探究を続けている…。その甲斐あってか、前回のサマースクール参加時より成長できた実感がありながらも、どうしても1人で考えていると漠然とした理想論に帰結してしまいその先に進まないので、フェローシップを通して対話をしたり瞑想したりすることで、新しい何かを自分の中に見出せるよう取り組みたいと思っている。

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