はじめまして、高校3年生のになです。去年のサマースクールとフェローシップに参加して、現在はKOTOWARIでインターンをやっています。KOTOWARI Summer Retreatの雰囲気や想いなどを伝えたくて、ブログ担当をしています。この記事ではKOTOWARIで得られる学びとは何であるのかを書いてみたいと思います。
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ある参加者が、KOTOWARI サマーリトリートの記憶を「密度の高い空白」と表現していた。その5日間は、非日常として位置付けられるが、すっと染み込んでいくような側面もあるため、他の記憶の文脈から浮いている。私は、リトリートから形成した知識の性質が他の経験を通して得た知識と微妙に異なることが理由だと考え「リトリートを通して獲得した知識の性質とは何か」という問いを抱いた。
一般的に受け入れられている知識の定義は「多様なものの見方をもった個人が、データや事実といった根拠と綿密な論理に基づいて辿り着く共通の結論」だ。例えば、高校生の私が学校で習った「ヴェルサイユ条約は、第二次世界大戦の長期的原因になっており、失敗した和平調停の一例だ」という歴史的知識は、異なる文化的・社会的文脈で生きてきた歴史家が辿り着く、ある程度、共通した結論である。しかし、リトリートやフェローシップの参加者がプログラム後に導き出す暫定的な結論は、多種多様だ。ここでは、そんなKOTOWARIの探求を通して得る知識を『主観的知識』と呼び、「個人的な見解・感覚といった内面世界から導き出され、客観性を必ずしも必要としない知識」と定義づける。
私は、フェローシップとリトリートのどちらからも主観的知識を得ることが出来た。しかし、フェローシップで重みがおかれているのは『言語』『理性』『感情』を通して獲得した知識であるのに対して、リトリートは『知覚』『直感』『想像』を通して獲得した知識だという印象があった。以下、フェローシップとリトリートで得た知識の性質を比較し、その内容と得る方法の相違点に焦点をあてて論じる。
フェローシップでは、自分と自分・他者と自分・社会と自分の結びつきを批判的に捉え直すことを通して、自己の内面世界に関する知識を得た。例えば、David Brooks著『The Second Mountain』を土台として「自己実現と自己達成をする」ことが人生の意味というモラルエコロジーは「成功と達成を重要視」するモラルエコロジーと相まって「惨めな気晴らしの人生」に陥りやすいという知識を手に入れ、その価値観を刷り込まれていたことを自覚した。
知識を得る方法として『言語』『理性』『感情』が挙げられる。プログラムでは、隔週の読み物の内容を深めていくための問い、ディスカッションの時間が設けられていた。『言語』を用いて知識を吸収・整理し、お互いに質問を繰り返していくことによって理解を深めていった。自分が支配されやすい、抑圧されている、大切にしている『感情』に向き合うことにより、自分自身の根源的欲求といった知識を生産した。また、内省した結果をアウトプットして他者と共有してある程度の一貫性を保ちながら追求していくにあたって、人が持つ合理性、すなわち『理性』を利用した。雪が静かに降る会津山村道場で過ごしたことにより、外面世界からの刺激が少なかったため、意識を自己に向けやすかった。自分の感情を言語化する作業を繰り返し、吸収した知識を組み合わせたものを共有することによって、自己の内面世界に関する知識を得られた。
一方で、リトリートの知識では、自然と自分との結びつきから生じるような外的な世界との繋がりに関する知識を生産した。これらの知識は『知覚』『直感』『想像』をもとに生産された。象徴的なアクティビティは「屋内にいない」「時間を見ない」「物を持たない」「人に伝えない」「言葉で考えない」というルールにしたがって自由に時間を過ごしたことだ。その時に、裸足で道場周りを歩き回り、苔を踏みながら歩くことの心地良さに気づいたように『知覚』から、身体的かつ感覚的な知識を得た。
また、自然との繋がりを感じた時に、養老孟司教授著『いちばん大事なこと』に書いてあったような、自分が「人間社会」対「自然環境」という図式や「ああすれば、こうなる」と論理を組み立て自然をコントロールするような思考に囚われていたことを『直感』的に理解した。その上で、文化人類学者で映像作家の太田明美がアマゾンの奥地でシュアール族と共に暮らして制作したドキュメンタリー作品『カナルタ』を鑑賞した際には、彼らが人間社会と自然環境の境界が薄く、全く予想できない力の及ばないものとして自然環境と向き合っていることを『想像』し、理解できた。このように、自然と自分の結びつきを、知覚を通して身体的・感覚的に理解した上で、直感と想像を以て他の知識と繋げていき、外的な世界との繋がりに関する知識を生産することが出来た。
KOTOWARIサマーリトリートとフェローシップでの経験を通して、知識の性質や獲得の方法の多様性を再認識することが出来た。サマーリトリートをきっかけに、論理化されない直観、主観的な心や意識のありようなど、人間の根幹を成す部分を意識した。元々、そうした類の知識というのを自分はどこか軽視していたし、顧みることがなかった。しかし、言語に一回変換することで相対化した記憶よりも、圧倒的に繊細で鮮明だったことに驚いた。頭の中で復唱して全てを捉え直すよりも、ただ、それを観察して感じるというほうが明確かつ鮮やかに理解できるということが体感してわかった。会津の非日常空間にいるからこその気づきだった。