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はじめまして、高校3年生のまことです。一昨年のサマースクールと去年のフェローシップに参加して、現在はKOTOWARIでインターンをやっています。KOTOWARI Summer Retreatの雰囲気や想いなどを伝えたくて、ブログ担当をしています。この記事ではKOTOWARIとはどんな場であるのかを書いてみたいと思います。

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KOTOWARI Summer Retreatの持つ、ある種不思議な場を言語化してみたい。

まず、KOTOWARIのページを開くと、すぐにこの文言が目につく。

「変わりゆく時代に、変わらない本質を。」—本質探求のための学び場

何か絶対的な答えを持っているような、少し神秘的で、それでいて陳腐な、どこか危ない印象を受けるかもしれない。例えば、悩んでいる若者が、ここにくれば全ての悩みがなくなって溌剌とする、と喧伝しているかのように。

しかし、KOTOWARIでは、単一の真理や本質のようなものを教えてくれたりはしない。それどころか、そういったものを見つけるよう促される訳でもない。ただ、自身にとっての世界の見方、自身にとっての本質を探求していく旅路に、隣にいてそっと一緒に同じ方向を見てくれる人がいる。そういった場が形成されている。

静かな時が息づく場所に、とめどない問いを抱えた若者がふらりと集まってくる。会津の自然と人が相互作用し、人と人も反応を繰り返して、静かな場が作られていく。人と自然が互いに場を作り合う様は、まるで電磁気のよう。理想的とは言わないまでも、ちょうど良い距離感で自身や他者と向き合える。

振り返りの時間

KOTOWARIでは環境問題を主に取り上げているがその実、問いのベクトルは自己の理解に向いている。環境問題というレンズを通して、自己のあり方に(例えば僕だったら、ビジネスプランコンテストに出て、インターンして、投資のコンテストに出て、など。)批判的な見方が養われる。自分が何を買って、何に賛成して、何を嫌って、どうやって生活しているのか。そしてそれがどのように位置づけられるのか。多岐にわたって、自分にレンズが向いてゆく。学校の授業で習うように知識がどんどん増えたり、体系だって整理されている訳では無いから、答えも出ないし、出た答えを認めたく無いことだってある。でもその過程が苦ではない。

他者との対話の中で、自身との対話も進み、いつの間にか自分の行動や思考が少しだけ変化する。とても強固で変わらないと思っていた信念も、北風と太陽のように緩やかに解ける。僕個人の体験で言えば、僕は少しだけ僕以外に目を向けられるようになった。他の人にとっては取るに足らないことかもしれないが、僕にとっては大きな変化だった。「社会的な成功」「金銭的リターン」の二つを標榜し、着実に計画を立ててその山を登りはじめていたはずなのに、突然ふもとの原っぱまで放り出された気分だった。自分自身に向いたベクトルと、僕の中の倫理が和解して、長年にわたって荒んでいた自分の心が落ち着いたからだ。

夜、焚き火を囲む時間

KOTOWARI Summer Retreatには色々な人が集まってくるから、そうやって自身にフラットな視点が導入されるのだろう。独断と偏見で大ざっぱに四分割すると、芸術家・哲学者・起業家・活動家がいる。それぞれ実践・思弁の比重と、目的が違う。共通している部分は、皆何かしらの問いを現在に対して抱えているという点だ。だからそれぞれが別のカテゴリーに属する人へ、何らかの影響を与え合う。

みんな、未練のない緩やかな紐帯で繋がっていて、個々人はそれぞれの問いを追求し、時に交わり時に離れる。かと言って、互いに無条件に肯定し合い、賞賛し合うような、和気藹々として煌びやかな雰囲気かと言われれば、少し首を傾げてしまう。しかし、勝手に会話が生まれていくような、静謐で活発な場ができている。ファシリテーター・ボランティアもある部分はメンバーとして、ある部分は先達として、そうした場の風通しをよくして、各人に向き合ってくれる。家庭教師の宣伝にあるような徹底したマンツーマン教育!などではなく、ひとりの対等な人間同士としての関係がここにも築かれている。

ブナの原生林にて

もう一つこの場に大きな影響を与えているものは、KOTOWARI Summer Retreatの自然だろう。耳をすますだけの時間や、何も考えない時間、芝生に寝転ぶ時間。そう言った緩やかな時間の流れ。僕たちの思考や言語がによって設計されたシステムによって、普段は捨象されている感覚領域をまざまざと思い出させてくれる。そしてだからこそ、素直な気持ちで他の人と交流し、自分自身の感覚や感情にも気づくことができるのだろう。

今年僕はインターンとしてKOTOWARIに関わっている。サマースクールにもボランティアとして参加する予定だ。僕がサマースクールに参加してからはや二年が経ち、ここでの経験はだいぶ僕の大学選択や、もっといえば進路にまで影響している。しかし、それは自分が何か優れた存在だとか、特別な誰かになったというような「成長」などではない。まして全てを受け入れて何も行動を起こさずじっとしていよう、というのとも違う。自分についてよく考えて知ることは、真の意味での教育のある一段階であり、ここが終点ではないのだ。心を開いて、そして真剣に、今年も皆と共に探求をしていきたいと願っている。