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Started on 8月 20, 2022

KOTOWARI 会津サマースクール 2022

Day 4: Where do we come from?

動画再生
フィールドワークで訪れた只見地方のブナ林では、これまでの対話や映像、物を通して得てきた学びが実際の体験と結びつきました。環境保護活動に人生を賭した2人の現地の活動家の方々から、時代を経て変わっていく環境保護(保全)の 在り方を学び、なぜ過去に只見のブナの原生林が国による伐採の危機を迎えたのか、その後どのような過程を経てどのように地域の公共の富となったかを知りました。
午後には映画『カナルタ 螺旋状の夢』で知られる太田光海氏から、エクアドル南部のアマゾンの原住民であるシュアール族との一年間の共同生活を通して、どのような学びや気づきがあったかについてのセミナーがありました。現代化や資本主義の波に揉まれつつも伝統的な生活や文化を守り抜こうとする主人公・セバスチャンの葛藤や苦悩、決意や、帰国後の現代文明への最適応にまつわる経験に関して、参加者との対話が行われました。
そして、これまでの学びや研ぎ澄まされてきた感覚をもとに、いま・ここにある「自分」という存在に、直感や感覚を用いて焦点を当てる最終課題に取り組みました。

Tadami Forest Fieldwork

ユネスコエコパークにも登録されている世界有数のブナ林を誇る只見地域で、山を歩きながら人工林と二次林、ブナ林を観察し、対話をしました。さらに現地の環境活動家の方から、只見における人々と自然の関わりについて話を聞き、時代を経て変わっていく 環境保護(保全)の在り方を学びました。また、過去には伐採が進められていたブナ林が、どのように地域で共有される富となったかの過程を知ることもできました。
また、数千年前より同じ姿をとどめているとされるブナの森を全身で感じることで、自らと過去の接点、そして人間の手がほとんど入っていない自然界と自分との接点を見出すことになりました。また、未知の自然資源の宝庫としてのブナの原生林を保護する意義についても、詳しくお話しをお聞きしました。
<参加者の声>
なんでかはまだ分からないが、そこにいるだけでとにかく楽しくて(新国さんとわたなべさんの解説があったのも大きいが)、もっとあの森の中にいたかったと思った。思った以上に自分が森のなかが好きだということを知った。 森の手入れとして良かれと思って天然林を切ってしまう人がいるという話を聞いて、自分は誤った知識による活動をしないようにしなければと思う一方、それを恐れて何も実践できなくなるのも避けたいと思った。 本を読むだけで良し悪しを判断するのでなく、様々な領域で長年実践をしている人たちと話し、活動を共にすることで自分の体験をもって何が自然や森にとっていいことで、自分にできることなのかを考えるようにしたい。

Seminar: Akimi Ota

共生か、征服か。崩壊していく自然に対して私たち現代人の抱えるジレンマを、『カナルタ 螺旋状の夢』の監督・太田光海さんを迎えて解きほぐしていきました。アマゾンの先住民の世界観と価値観から、現代人の私たちは何を学ぶべきなのか。現代社会の発展によって解体された人と自然との関わりはどのように再建されるべきなのか。答えのない問いを、金銭ではない「豊かさ」という視点から捉え直しました。
参加者が太田さんに質問をしていく中で、私たち現代人とは大きく異なる価値観や文化を持つシュアール族との共同生活から見えてきた、彼らの価値観や文化の源泉をたどりました。また、現代化や資本主義の波に揉まれつつも、生活のほぼ全てをアマゾンの森における自給自足、そして人力の労働のみで賄う生活を過ごした中で見えてきた、現代社会の不自然さやその利便性の裏に隠された違和感についてなどが、浮かび上がりました。
<参加者の声>
複雑系としての地球を前提とした上で、長い時間軸の中で地球環境を考えるようになった。そこでは、人間の活動の影響は無視できないものであると同時に、人間中心主義の欺瞞と危うさを実感した。つまり、地球環境の様々な変化は非常に複雑でアクターが相互に関わり合う地球システムの中で発生しているため、単純な因果関係の想定を元に道具的な解決手段を提示することが、根本的な解決にならない可能性を感じた。根本的に、自然と人間の二項対立的図式を超える必要があると考えた。

Final Project 

これまで得た気づきや感覚、学びを元に、「自分」という存在の本質にせまっていく最終課題に取り組みました。
Q1: 只見の森で見つけたもの(枝葉、セミの抜け殻、その他で各自が気になったもの)をあなたの碑として想像/想像してみてください。碑とは、そこに何かがあった(いた)ことを示すものです。
Q2: Q1を踏まえて、「ここにあなたがいる」ということを、あなたの自由な表現方法で表してみてください。
※それぞれの言葉の定義、何をどこまで含むかは自由です。
※表すための手段は自由です。(言葉以外の手段の場合は言葉での補足もお願いします)
※サマースクールでのこれまでの気づきや学び、Q1の内容を自由に組み込んでみてください。

 

Day 5: Where are we going? 

 

Seminar: Shinichi Tsuji

ムダのてつがく:「役に立つ」を手放す
ムダについて考えること。それはムダどころか、ますます重要になってきている。ムダは良くないという考え方や、ムダをムダだと思わしめるものは何なのかを突き詰めていったとき、合理主義や功利主義というものが潜んでいると言えます。「忙しさ」や「効率化」を追求する世界の外側にある世界は、私たちにより多様で意味深い示唆や可能性、人間らしさを見出すきっかけを与えてくれます。
「雑である」「怠ける」「休む」「遊ぶ」「わからない」など、一般的にはネガティブに解釈をされてしまいがちな言葉を丁寧に拾い集めながら、それらの言葉が照らし出す豊かで新しい「ムダ」な世界と意味を探究する。そのためのヒントと実践を、人類学者・環境活動家の辻信一さんから学びました。

Final Project Sharing 

 
 
前日の夜から各々が取り組んだ最終課題を全体とシェアしました。サマースクールで新たに生まれた自然や世界、そして自分との関係性を、自己分析やエッセイ、詩、絵、踊りなどの、参加者がそれぞれ選んだ表現方法で形にしました。同じ内容の学びを経験した仲間たちが見出した新たな意味と創造の豊かさを感じ取り、そこからさらに生まれた気づきを少人数のグループ毎に話し合いました。以下、オンラインで参加者が自主的に公開している一部の作品を掲載します。
 
<サマースクール全体の感想>

・サマースクール参加前後で、「環境問題」への理解がどのように変化したか
奥会津で過ごしたかけがえのない5日間(外部リンク:参加者によるブログ記事)
環境問題の本質を深く考える機会になり、環境問題の範囲が自身の中でより広くなったと感じている。事前課題に関するディスカッションを行った時に、短期的な利益を重視し長期的な視野を持てていないこと、そしてそれを生み出している教育、人間対自然という構図、といったより抽象的なものが環境問題を生み出しているのかもしれないし、そこまで含めて環境問題なのかもしれないと考えるようになった。そして、これらの抽象度の高い根本的な人間の姿勢や意志が変わらない限りは、問題は形を変えて現れ続けるのではないかとも考えるようになった。また「ああすれば、こうなる型の思考」を持って環境問題に対して向き合っていた自分に気付かされた。しかし、あまりにも「ああすれば、こうなる型の思考」が自分の前提となってしまっていたから、まだ自分がどう向き合っていくことが出来るのかについては考える余地がかなり残されているとも思う。
参加前は、問題を解決をしようと、なにかを起こせないかと考えるのがよいと思っていた。参加後は、問題に対して一旦一呼吸を置くようになった。その良さに気づいた。よって、私が解決しようとしてるのは表面上だけの問題であることに気づいた。考えることはすごく大切だけれど、五感という平等に感じられる器官が備わっていることに感謝しようと思った。
環境問題を外側から考えることに違和感を抱くようになりました。環境という枠の外側から人間に何ができるか、あるいは何をしないかを語りがちですが、人間も自然の一部である以上、内側に位置づいている存在としてどうするべきか考えなければならないと思うようになりました。
 
漠然と「悪いもの」と捉えていたものが、「考えれば考えるほど訳のわからないもの」という認識に変わりました。 ただ、だからと言って思考を放棄するのではなく、私の一つ一つの行為は選択であって、少なからずそこに責任も伴うわけで、これからもたくさんの人やものとの関わりの中で自分や世界を見つめていきたいと思うようになりました。 また、同世代で、環境問題についてすごく意欲的に取り組んでいる仲間がいるということも改めて知りました。今の私は、彼らのように活動することはできない(気持ちの面で)とも感じて、だからこそ自分を内省する時間を作りたいと思いました
「環境問題」という字面を見ると、どうにかしないといけない、考えていかないといけない、というような思いが先行しすぎて、その根本の問題が何か、何が問題なのかというところまで考えられていなかったと感じました。養老さんの本にもあった通り、「環境問題はいけない」が形骸化していて、例えば、どうしてSDGsのような目標ができて、それが何に繋がるのかのような疑問を持たなくなって、提示されたことをやるというようになっていたなと思います。サマースクールでは、事前課題で考えていた「環境問題を考えるために、自然を体験し、環境問題による影響を感じないといけない」ということを、「しない時間」などを通して、感じました。感じたことで特にこれ!という変化があったというわけではないですが、自分が考えていたことが腑に落ちるような、確信が持てるような形に変化したと思います。

自然に対する捉え方が変わりました。今まではエアコンのついた快適な部屋で過ごすのが好きで、虫や植物に対して苦手意識が強かったですが、今回のサマースクールで、自然と人間は繋がっているという感覚を得り、苦手意識は無くなりました。まさか私が、外を日焼け止めを塗らずに裸足で歩く日が来るとは思いませんでした。
解決の糸口は社会の制度的変革ではなく、自分も含めた個々の人々の生き方にあると考えるようになった。字面としては平凡な言葉ではあるが、非常に本質的であると思う。自分は環境問題について考える際、往々にして社会や国家という大文字の主語に目が行きがちであった。しかし、当然のことながらその構成員たる個々の人々や他の生物、非生物といった全てのアクターがひしめいている。この多様性溢れる領域がいかに現行の環境問題への向き合い方を変えるかを意識していきたい。
どこか遠く大きな存在だと感じていた環境問題という言葉と概念が、今回のサマースクールを通して自分ごとに感じられ、自らの身の回りにある「自然」に対しての向き合い方ひとつをとっても環境問題へのアプローチとなりうることを肌で感じた。同時に、環境問題という言葉に内包される事象は自分一人だけでは捉えられない複雑なシステムであることが、課題図書やサマースクール内のさまざまなアクティビティによって、より自分の中で確かな実感となった。そして、これから環境問題を考える際には、未来に起こるであろう大きなインパクトにつながることを想像しながら、周辺の小さなことから始めていこうという気概を持てるようになった。
・サマースクール前後の自分自身の変化
素直に他者から学ぼうと自分を開くようになった。参加以前は、そうならないように意識していていても、心の底で他者の話をなんとなく軽視して自分の中の固定的な枠組みの中に還元することが往々にしてあった。しかし、5日間を通して自分の経験や知の枠組みが解体され、そこに真空状態が生じる中で、より真っ新な状態で他者の声を受け止められるようになった。 ・・・言葉の外の領域に豊潤さを感じるようになった。参加以前は、近代社会が言語によって形作られており、様々な平準化と捨象の上に成り立っているであろうことを、理屈の上では理解していたものの、それを手触りのある実感として得たことはなかった。しかし、言語を極力排しながら、自然に没頭する、民族誌映画を鑑賞する、瞑想やヨガをするといったことを通して、これまでの自分では規定、解釈ができない豊かな領域の存在が僅かながら感じられた。 – これらのいずれも、豊かな自然の中で心身ともに整った状態であったからこそ、可能であったと思う。
サマースクールに参加してから、なんとなく、生活を送るのが楽になりました。サマースクールの5日間は、絶え間なく刺激的な毎日でした。講義やディスカッション、あの場にいた方々とのコミュニーケーションなどの外側からの刺激も多くありましたが、それと同時に、自分の内側と向き合う時間から気づくこともありました。忙しない日常の中で見失いかけていた、自然体の自分、本当に考えていること感じていることは何か、を思い出すことができたと思います。それによって、改めて自分の中にしんができたように感じています。自分に真っ直ぐという感覚を得ることができました。
5日間、南会津でみんなと過ごして、焚き火を囲んで夜遅くまで対話する中で、自分に向き合わされた感覚がありました。自然と調和して心地良さを感じる感覚。小さな発見に対して感性を尖らせることから導かれる心の豊かさ。今という瞬間の奇跡を吟味して時間をムダにして生きるということ。毎日毎日やることに追われて「ムダ」をいかに切り落とすかを考えて都市で生活する中で、自然の中で過ごすこと、言葉で考えないで身体で感じること、ぼーっと時間がただ過ぎていくのを感じることを「時間の無駄」として捉えて、なるべく生活から削ぎ落としていました。KOTOWARI会津サマースクールで人や自然との繋がりを感じる中で、自分がいつの間にか忘れてしまっていた大切なものを思い出したし、部分的に取り戻すことが出来たと思っています。たくさんの素敵な出会いに恵まれた、なんだか現実だとは思えない不思議な5日間「密度の高い空白」でした。

「今」の捉え方が変化したと思います。 普段の「今」は一瞬で、見つめるまもなく過ぎ去ってしまうものですが、 この5日間は、とにかく「今」「ここ」「私」と向き合って、自分がどうしてここにいるのかを考える時間になりました。 あまりイメージのわかなかった「今」というものが前よりも鮮明になり、 自分が本当に多様で様々な循環の中で生きているということ、自分の身体という容器のようなものの中と外は常に繋がっていて、食べ物や空気・情報・考え方・感じ方が絶えず出たり入ったりする循環の中に、「今」があるということを感じるようになりました。
自分の住む町(大阪)や、自分の生活の見方が変わった。自分が食べる物ができるまでの過程に興味を持つようになった。今まで、大阪の濁った川の中にいる魚や鳥に対して、「よくこんな汚いところで生きてられるね~」と思っていたが、会津から帰ってきて、それを人間に対しては思わなかった自分に対して疑問を持った。 おそらくその理由は、都会に生きていると、全面アスファルトで土や植物との距離が遠く、川の水は汚くて入る気にならないので、自然の中で生きているという実感がなくなるからだと思う。どんどん自分が人間と他の生き物や自然を切り離して考えるようになっていたことに気づいた。大阪に久々に帰ってきて、うがいをしようと思って水を口に含んだら、まずすぎて驚いたし、空気がどんよりしてて、深呼吸しても気持ちよくないなと思ったが、次の日から何とも思わなくなっていた。何とも思わなくなっていたことに気づくようになった。
私は自分の人生とこの世界に対する見方が変わりました。心の安定を取り戻す方法を知り、自分の「社会問題」に対する認識の狭さを知り、まだ見ぬ世界がとても広いことを感じました。私の人生はこのプログラムと皆さんとの出会いによって、これまで見えていなかった道に進みそうです。皆さんにお会いすることができ、本当に幸せでした。皆さんが皆さんの人生の一部をプレゼントしてくださったことを決して忘れません。

言葉の外の領域に豊潤さを感じるようになった。参加以前は、近代社会が言語によって形作られており、様々な平準化と捨象の上に成り立っているであろうことを、理屈の上では理解していたものの、それを手触りのある実感として得たことはなかった。しかし、言語を極力排しながら、自然に没頭する、民族誌映画を鑑賞する、瞑想やヨガをするといったことを通して、これまでの自分では規定、解釈ができない豊かな領域の存在が僅かながら感じられた。 
感覚が開いて心が穏やかになりました。 サマースクールが終わって数日、不思議な感覚がありました。 食べ物と場の空気からたくさん良いエネルギーをもらって、自分の中が満たされている感覚があり、イメージとして自分の中心がどっしりと構えていて、そこから外に向かって豊かな感覚が広がっているのを感じました。次の日にサークルがあったのですが、普段は大学の人とkotowariで話すような本質的な話をあまりしないのですが、その日は何故か大学の友達と自然とそういう話ができてつながりを深めることができました。 この感覚自体は数日で薄れてしまいましたが、kotowariで出会った人たちと接したように豊かなつながりを身近な人とも築いていくことができると思えるようになりました。 最終日に、ある参加者の方が「こういう場だけではなくて、普段から友達や身近な人とも、いかにこういった話をできるかが大切だと思う」と言っていて、ハッとさせられました。今後も意識してみようと思います。
印象に残った言葉が3点ある。第一に、循環である。地球上の全ての事象の本質の1つであると純粋に感じたからである。これは、5日間を通して複数のレクチャーや議論、アクティビティの中で、繰り返し自分の中に現れた概念だった。第二に、全てが大地に根差すということである。特に太田光海さんの映画と辻先生のレクチャーの中で実感したことである。直接的に太田さんや辻先生ご自身も仰っていたが、人間も含めてこの地球上で生起するあらゆる事象やものは、何一つ地球に根差していないものはない。これは非常に単純で当然のことのように思えて、近代文明的生活と思考を持つ自分にとって、非常に示唆深かった。第三に、「ただいる(to be)というひと時」である。これは最終日の辻先生のレクチャーにおける言葉である。人間のすることなすことは、数億年という単位で考えれば非常に虚しく感じられ、ニヒリズムに陥り、あらゆることの価値は相対的であると諦めてしまうことが、自分は往々にしてあった。しかし、その中でも人間が言語的な意味に疎外されることなく世界を充実させることができるとすれば、そのヒントはこの辻先生の言葉に尽きるように思えた。