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Started on 8月 18, 2022

KOTOWARI 会津サマースクール 2022

Day 2: What are we? 

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私たちが環境問題を考えるにあたって「当たり前」とされている社会的な価値観は、どこからどのように生まれてきたのかを経済哲学や自然科学の視点から探究していきました。哲学者の荒谷大輔氏、昆虫学者の瀬戸昌宜氏による学問的な講義やディスカッションを通して、参加者はより広く多様な視点から、環境問題を引き起こしている経済構造、科学的権威主義はどのように作りだされ、どのような特性をもつのかを考えていきました。

Seminar: Daisuke Araya

現代の環境問題のジレンマに、経済活動の自由と、規制などを通した環境保全の両立があげられます。このような議論が大前提となる価値観や経済的な仕組みは、どのように生み出され、私たちの生活に浸透していったのでしょうか?
環境問題をはじめとする様々な社会問題を生み出した「市場原理」とはどのようなものなのか。共感と快楽を前提条件とする資本主義の倫理観や価値観、そこから生み出される「正しさ」や経済の仕組みとはどのようなものであり、なぜそれを変えることが難しいのか。資本主義の背景にある思想的枠組みを問い、私たちにとっての「当たり前」を新たな視点から捉え直すためには、どのような視点が重要となるのか。経済哲学の専門家である荒谷大輔さんを迎えて、身近な事例を交えて語ってもらいました。

Discussion Two:「理想」の社会を議論する

環境問題を考えるとき、どうしても私たちは問題そのもの、つまり現実と過去に基づいた議論のみに終始してしまいがちです。一方で、そうした問題がそもそも存在しない社会とは、一体どのような形を成しうるのか。資本主義の「倫理」の外側にある、自分たちの目指したい社会像を想像し、そこに「環境」という視点も交えた上で形にしていきました。
理想の社会は、どのような価値観に基づく必要があるのか。また、環境問題のような問題が存在し得ない社会というものを想像するときに、私たちはそもそもの自然環境というものを十分に熟知しきれているのか。こうした問いを抱えながら、各グループにて独自の社会像が考えられました。

〈参加者の声〉

考えさせられたことは、何か問題を解決して理想の社会を創りたいのであれば、「その理想の社会はどのようなものなのか」を説明できるようにならなければいけないということ。それが説明できるようにならないと、「解決」は本来手段であるはずなのに目的になってしまうのだ。今までの自分は、「不平等、貧困、ジェンダー問題といったあらゆる社会問題に複雑に関係しているといえる環境問題を解決したい」ということを考えていたし、このサマースクールに参加する前の面談でもこの思いを伝えた。自分にとって「環境問題を解決する」は、目的になってしまっていたことに気づかされると同時に、理想の社会とは何なのかについて考えることをいつからか辞めてしまっていたことに気づいた。別に理想の社会が何なのかを説明できなくても良いと自分の中で正当化してしまっていたように思う。自分が理想とする社会は何なのだろう?

Seminar: Masanori Seto 

これまで人類が向き合い続けてきた「自然とは何か」という問いは、現代科学という枠組みによって掘り下げられるようになって久しい。しかし、私たちは科学的思考がどのような考え方のもとに形成されて、社会的に受け入れられているものなのかを意識することは少ないのではないでしょうか。
科学的思考というものには、そもそもどのような前提条件や限界があるのか。「科学的に証明される」とは、実際には何を意味するのか。自然環境という対象は、そもそも科学的思考のみによって把握しきれるものなのか。「自然」を知るとはどのようなことなのかというテーマのもと、現代の科学的手法により昆虫学の研究に従事していた瀬戸昌宣さんと共に、自然界を科学的に捉える営みについて学び、より良く「自然を知る」可能性を探究しました。
<参加者の声>
瀬戸先生のレクチャーは、今後の自分の知的態度に大きな影響を与えるだろうなと受け止めた。新しい知的態度とはつまり、「これまで分かったものを捨てはしないが、当然視もしない。今分かっていないものは『分けられないもの』として保持しておく」というものである。社会科学を社会科学を学ぶ身としてその非現実性に対する葛藤を薄々感じていただけに、こうしたお話は自分の中でこれを解決するための糸口になり得るものだった。これは、辻先生のレクチャーにおける、「役に立つ/立たないことを切り分けることで捨象される領域」というお話にも通ずる点であった。また、言語を極力排して自然の中で過ごす1時間、30分間も、言語偏重を脱する機会として非常に貴重だった。これら全てを経た上で、最終課題としてアウトプットを出すことで、自分の中で言語外の領域を感じ取る、心を開く能力、性質が大きく開花していることに気付かされた。

KOTOWARI Time

私たちは「目的」や「時間」、「言葉」というものと共に生活をしています。意識的にも、無意識的にも、時間や言葉に基づいて「何かをする」ことが「当たり前」となっています。この「当たり前」を取り払ったとき、私たちは何をみて、感じて、何に気づくことができるのか。何かをするのでもなく、ただそこに「在る」ということは何を意味するのか。以下の5つ「しないこと」を決めて、施設周辺の野原や森、道を歩き、立ち止まり、ただただ1時間を過ごしました。以降、プログラムの合間に長さを変えて数回のKOTOWARI Timeが実施されました。
1. 言葉で考えない
2. ものを持たない
3. 人に伝えない
4. 時間を見ない
5. 屋内にいない
奥会津の山の中にて、周囲の木々や草、虫、空、風の流れを全身で感じながら、そこから浮かび上がってくる直接体験に向き合いました。
<参加者の声>
最近の5年間の中で初めて何もしない時間を持った。前は時間を無駄にしてしまったと焦燥感を感じていたが、初めて罪悪感がなかった。多分何もしないことは何もしていないことには繋がらないんだと感じたからだと思う。たしかに何もしていないが、風に吹かれると気持ちがいいとか、指をだすとトンボがとまってくれることに気づいたりとか、それは本当は私にとって大事なことなんだと思った。
あの1時間ほど自然の中の虫、草木と対面していた時間はないと思います。最初は、外に出て自由にどうぞと言われ、どうすれば良いのかとても戸惑いました。が、だんだんその状況を受け入れ、自然の中の生き物のみならず、整えられたみちや建物などの人工物、他の人の存在も感じていました。その中に自分がいること、巨大なシステム・環のなかに自分が存在していること、を体で感じることができたと思います。
自然の中で、時間がわからないまま一時間(とか、もっと長い時間)考えることなしに過ごす経験。今までこんなことをする経験も場所もなかったので、壮大な森と草原と虫のなかで自分の存在について感じることができた。というのも、『「自分」を感じる時は?』という最初の質問の中で、私は他人との相対化という言葉による自分の特徴の認識でしか「自分」を感じたことがなかったけど、絵を書いたり舞踏しているときに自分を感じる人から話を聞いて、そのような世界もあるのかぁと知ってから、この場で考えずに何かを感じることをトライできたのが自分にとってとても素晴らしい体験だった。
初めは、言葉で考えないというのがとても難しく、例えば木をみればつい「木だ」と思ってしまっていました。言葉を覚える前の子どもは、目の前のものをそのまま受け止めて、笑ったり泣いたり驚いたり怖がったりします。自分がいつの間にか言葉の枠にはまってしまっていたことに気がつかされました。 転機になったのは、太田さんの「カナルタ」と参加者の優子さんの舞踏です。どちらも、言葉よりまず感覚で受け取る体験ができました。そのときに、言葉で考えないで感覚で世界とつながるってこういうことだ!と身体で感じることができ、その後の5つのことをしない時間に生かすことができました。どんなものでも、まずは感覚で受けとり、それが言葉や芸術など何かの表現になっていくということが意識化されました。 これは、全ての学びや時間の根底にあるものだと感じました。


Day 3: Where do we come from? 

人間中心の社会のしくみを認識したところから、時代の流れとともに変化していった人と自然の関わり方や、人間のもつ自然観、地域や気候、文化ごとに異なる自然観の多様性について、参加者は認識を広げていきました。
全近代から豪雪地帯であった奥会津にて、実際に数百年もの間使い続けられていた生活用具や道具、家屋がそのまま収蔵されている奥会津博物館への訪問から始まり、人間とサケとの関係性と人間がもつ「サケ観」の変化とその意味に迫る福永教授によるセミナー、そして、コロンビア南部のアマゾンの森に住み、今でもオフグリッドで自給自足の生活を営むシュアール族のセバスチャンとパストーラの世界観に迫ったドキュメンタリー映画『カナルタ 螺旋状の夢』の鑑賞を行いました。

Oku-Aizu Museum

現代社会や経済の「当たり前」から一歩離れた、産業革命と資本主義以前、前近代の世界を垣間見ることができる奥会津博物館。そこでは自然の圧倒的な力とバランスを取りながら、人間の暮らしが営まれてきた足跡を見ることができます。世界有数の積雪量を誇る東北の山岳地帯である只見・南会津地方において、人間の力をはるかに圧倒する自然環境のサイクルを生き抜いてきた人々は、一体どのような暮らしをしていたのか。地元会津で原生林を守る運動を続けられてきた学芸員の渡部康人さんが、自分自身の原体験をもとに奥会津の世界観を伝えてくださいました。
参加者たちは、 奥会津の先人が数百年使い続けてきた民具や道具、そして雪国の伝統家屋を、これまでの講義で学んだフレームワークに当てはめながら観察していきました。厳しくも豊かな大自然の移り変わりとともに生活をしてきた先人の生きる知恵、そして生産技術の発達と文化の変遷によって生活の場から消えていった世界観を全身で感じとる機会を持ちました。

Seminar: Mayumi Fukunaga

 
私たちが日常的に食しているサケ。実は人間とこの魚との関係は、近年の漁業のビジネス化やグローバル化、気候変動や環境汚染などによって、急激に変化しています。丸ごとの「魚」としての「サケ」に直接触れる機会がなくなり、食卓に並ぶ「サケ」との接点しか持たない私たち現代人にとって、「サケ」という概念はどのような変化とげたのか。その影には、近代の社会発展の結果、自然環境から乖離していった人間の姿がありました。
現代の「サケ」は、かつての「サケ」からどのような変化を遂げたのか。現代私たちが食するサケから消えゆく本来の「サケらしさ」は、私たち「人間」という存在にどのような示唆を持つのか。「生命を食べる」という人間の根幹的な営みを基軸として、「サケ」という存在がつないでいる複層的な人間の文化と自然の生態系が浮かび上がり、学生たちは現代人の生命観や人間観を相対化していきました。

 

KOTOWARI Time:あなたの生命はどこにありますか?

 
前日の「5つのことをしない時間」に引き続いて、自らの「命」というものに対して、参加者が各自で探究しました。奥会津の山の中に身を置きながら、目の前で繰り広げられる生命の営みと共に、その空間にただ「在る」こと。内省という営みを、あえて外にある自然界との関わりを持ちながらも、人間の作り出した「概念」を用いずに、より前言語的なリアルを大切にして、直感に基づいて「生命」を捉えることを試みました。
<参加者の声>
これまでも、自分は人に比べて「言葉」への反応が敏感だということは感じていました。 そんな自分が、「言葉を使わずに考える」。課題をみた瞬間に絶対無理!!と思って、案の定一日目は本当に難しくて、ひたすらクラシック音楽を頭の中に流すことで言葉を追いやろうとしていたくらいでした。
ただ、2回目、3回目と重ねていく中で、言葉を力づくで追いやるのではなく、浮かんできた言葉を一度感じてから手放していき、ただ「感じる」ということができるようになってきました。 ヨガの時間の影響も大きいかもしれません。
その時間を経て、言葉の枠組みを外して五感で捉えた世界や自分のことを、再び言葉を使って表現していく時間が、とても楽しかったです。 今まで自分がいかに「言葉」というものを通した枠組みの中で生きていたかということに気づいたのと同時に、自分が言葉を使って表現がやはり好きなのだということも改めて実感しました。

Film study: KANARTA

スペインによる植民地化後も武力征服されたことがない民族として知られる、アマゾン熱帯雨林に住むシュアール族。彼らと一年間生活を共にする中で作られたドキュメンタリー映画『カナルタ 螺旋状の夢』を鑑賞しながら、近代以前の人と自然の関係、その中で受け継がれてきたシュアール族の世界観や感性、彼らとの現代社会との摩擦のあり方を知るなかで、いまの私たちの在り方や世界観を見つめ直す時間を持ちました。映画の内容をもとにして、翌日の太田監督とのディスカッションに臨みました。
<参加者の声>
近代化していく都市の影響を受けながらも、その地で伝統的に育まれた独自の思想や慣習のもとに暮らしているシュアール族の姿は衝撃で、人間らしい暮らしって一体なんなんだと深く考えさせられたため。そして、学問的で科学的な知識ではなく、五感と経験則に乗っ取り「試す」「観察する」「考える」「分析する」というサイクルを経た上で、自分だけの知識体系を作っていくプロセスは、僕が普段疎かにしている自分の体で感じることの大切さを改めて実感させてくれたというのも大きな理由。
終わりが曖昧な映画を初めて見た。考えたこともないような生活ぶりで、いかに自分が自然のことを知らなかったのかを知った。植物を薬として使うことは頭では分かっていたが、あまりにも錠剤のイメージが強く、自然のものを薬に使う人を初めて見て、普段飲む薬にも疑問を持った。不思議な薬が出てきて、暮らし方の違い、信仰など様々なものに興味を持った。